【デザイン】融けるデザイン
インターフェイスは、インターネットは、デバイスは、身体の一部となる
パソコンの一般化は「メタファ」によって推進された。
今は「メタファ」を脱ぎ捨てようとしている時期
かつてパソコンは「電子計算機」であり、自由度が高すぎてなにができるのかわからない代物だった。
そこでAppleは、「これは○○ができますよ」と、お絵描き装置や楽器のアイコンで示した。
計算機をアプリケーションによって知的な道具に見立てたことで、「自分のやりたいことがここで、できるかもしれない。便利になるかもしれない」と思わせた。
コンピュータの自由度を制限し、定義することで、人々に魅力を伝えた。
「メタファ」の弱点は「時代によって廃れる」ことと、「全く新しいものを示せない」こと
例えば、「保存」を意味する「フロッピーディスク」は現在ほぼ使われていないから「これを押せば保存できる」というメッセージ性がほぼ無い。(新卒が「保存ボタンってへんなマークですよね。」と言ったというツイートがバズる時代である)
twitterやFacebookは過去にないサービスだったため、メタファで示すことができない。
UIの脱メタファ、メタファのないデザイン。それが「フラットデザイン」
今までのAppleのデザインは、リッチな木目調や時計の文字盤に貼り付けられたガラスの光沢感など「現実社会にあり、かつ高級感があるもの」を表現してきた。
それらは「あまりパソコンを使った事が無い人」のためのものだったが、「パソコンを使い慣れている人」にとっては不要であり、邪魔に思われてしまう場合もあった。
また、過去に無いものはメタファで表すことができない。
それらの問題を解決すべく、「フラットデザイン」が産まれた。
(影がなければフラットデザイン、というわけではない!)
道具は進化すると透明性を持つ
この場合の「透明」とは「認知や意識が自然に、無意識に起こること」
人類はこれまでの歴史で、道具が発展すればするほど大きな力を得てきたが、それに比例して操作が煩雑になってきた。
それを反省して、人間にとって「わかりやすい」「自然とそうする」インターフェイスをデザインすることが重要視されるようになった。
優良インターフェイスの鉄板例であるiphoneは、非常に滑らかでサクサクと動く。それは「指とグラフィックの高い動きの連動性が自己帰属感をもたらす→道具としての透明性が実現する」
それが達成されるとストレスなく、身体の一部のようになめらかに操作することができる。
道具としての透明性はなぜ必要なのか
人間は道具を利用することで「ある力」を得られるから。
道具が自分の身体の一部であるように利用できれば「身体の拡張」が可能になる。
画面の中にあるカーソルを、人は体の一部として使用する。それはマウスを「どう動かすか」考えている意識とカーソルの動きが連動するから。
iphoneにはカーソルがないが、操作した画面のアニメーションと指の動きが滑らかに連動するので、身体の一部のようにスムーズに動くと感じられる。
滑らかなアニメーションにだけ着目し、模倣したマシンが失敗したのは、操作する人の意識とインターフェイスがきちんと連動するデザインを実現できていなかったから。
文脈は「生活中心」となる
コンテンツは「ユーザーを拘束するもの」から「隙間時間をうめるもの」に変化する
かつてはテレビ・新聞などがユーザーを一定時間拘束していたが、タブレットやスマホといったデバイスの出現により、コンテンツへのアクセスが容易になった。
そのため、ユーザーの生活を邪魔しないものが好まれるように変化した。
ニンテンドーDSやスマホゲーなどの携帯ゲームの成功は「中断」が容易にできること。
いつでもやりたいからこそ、いつでもやめられるという機能が重要。
「時間」という基準がコンテンツを選ぶ価値の一つとなった
特定の場所へ行く・特定時間集中してもらわないといけないコンテンツのハードルが格段に高くなった。これまでは「映画館に行って映画を観るまで、合計4時間かける」というように、コンテンツやメディアの持つ特性に物理的にも時間的にもあわせてきたが、その常識はもはや崩壊している。
ユーザーが望んでいないのに拘束性が高いものは嫌われる。(校長のつまらない長い話にうんざりするようなもの)
設計の時点で「ユーザーの時間を奪うもの」として設計をする
「あなたのサービスはユーザーの生活のごく一部でしかない」
ライバルは競合他社だけではなく、ユーザーの食事時間や睡眠時間ですら、あなたのサービスのライバルであり、同時にうまく共生していかなければならない巨大なプラットフォームである。
「自己帰属感」を軸に、インターフェイスを考えることが「デザイン」
デザインはかっこよさやおしゃれさではなく、ユーザーの生活にとけ込む自然な行動を考えて設計するもの。
カーソルやスマホの操作のように、モノへの人の行為が動きとして連動的に関わることで「自己感」「私が感」が産まれ「自分の体験」となる。
そのために、「意識に融けるデザイン」が重要となる。
メディア軸からインターフェイス軸へ
映像・音楽・紙などの、かつてのメディアは、現在スマートフォンのアプリと同じ立ち位置となった。(客観から主観に変化)
それに伴い、グラフィックデザイナー・ファッションデザイナー・プロダクトデザイナーといった「情報・物質・メディア」ごとにあった職業よりも、視知覚デザイナー、行為デザイナー、聴覚デザイナーのような体験寄りのくくり方に変化していくのではないか。
さらに将来は言葉という手段すら、ある一つの方法、もしくはインターフェイスにすぎないということも充分想定できる。すでにアップルウォッチには脈拍や振動でコミュニケーションをする方法を採用している。
身体に近づくほど、記号性がなくなり、感覚的で連続的な体験が必要になる。
この流れはIoTやユビキタスなどの文脈と相性がとても良い。